「薄明」


それは、太陽はとうに暮れてしまったのに、未だ日の残した残照が名残消えぬ時を著わす空の名前。



やおら病室に入るとその闇の深さにたじろいだ。
声を掛けるタイミングすらその闇に飲み込まれ失なわれてしまった。
ブラックホール。
在るはずもない魂の形までそれに引かれてしまった男は、絶望の淵でくたりと藻掻くのを辞めてしまった。

「…きえて下さい」

唸るように絞りだされた声がベットに蹲る黒山の底から響いた。その様は逆光で巧い具合に見えず、未だうすらと残る日の残照に照らされてやっと上へ下へと微かに揺れている事が判る程度に不確かだ。

「お願いだから消えてください」

それは、私に吐かれた懇願なのか。それとも

「どうか、跡形ものこさず忘れさせてください」

心に未だ残る栄華への憧憬に投げ掛けた言葉か

言って彼は闇と同化した。

既に太陽は彼の栄華とともに連れ落ちた。

それでも残る日の微量な残照は只の届かぬ残酷な余韻と知りつつも、闇に成った彼にとっては。未だ目に眩し過ぎるのだろう。
両の手で顔を覆い、完全に光を遮断した。


このシェルターを安全に解き放つ暗号を私は持ち合わせていない。
既に彼と私の間には、誤魔化しきれない程の違いが生じてしまった。性差の如く根本的なその違いは多分、見る世界聞く言葉一つとっても悉く違いを突き付けるのだろう。
果たして言葉はまだ通じるか。
「上で、待っていると言ったはずだ。」
「…消えてください」
にべもなく
「私の為ならなんでもするとの誓いは、私をものにして垂らし込む口説き文句程度のものだったのか?」
「いい加減、自惚れが過ぎる。アンタは。いつもそうだ。」
逞しい肩が力なく揺れる
「アンタはどれ程俺に愛されていると思い込んでいるんですか?」
抑揚なく伝えられる言葉に少し薄ら寒ささえ覚える
「そう言えば俺はこの状態から救われるとでも?冗談じゃない。賢いアンタなら解るでしょう。俺の、足は、絶望的だ。」
一言一言を突き付けるようにつげた。
どこまでも現実は残酷で。揺るぎなく。滞りなく。遂行されているのだ。

「解ったならせめて、俺の前から優しく消え去ってください」
眼前から永遠に。永劫に跡形もなく。

嗚呼別たれてしまったのだ。

確かに繋がったのは体だけ。解ってはいた筈なのに私は今再び一つに返り咲いた。
その二人の間に横たわる断崖の果て無さを敢えて見せつけられた私は、その深さに目眩をすらしこそ、只体が崖に引きずり込まれぬ様にと必至で立ち尽くす事しかできない。
やっとの思いで口が動き、出た言葉ば薄ら寒い。
嘆きの言葉。

「許さない」

諦めがか?それとも私に敢え見せ付けたその様が?
「っアンタ…どこまでエゴイスティックな人なんだ!」
心底呆れ果てたように蔑む目に滲む僅かな怒りの色。
「こちらへ来いハボック」
横暴に卑劣に命令してやる
「私の下で。もう一度ここでずっと傍にいると誓え。」
這ってでも。
「いい加減にしてください。こんな惨めな様は無い!厭です。俺がそんなに欲しいならかこえばいい、金を出すなら幾らでも。」
「これは命令だ」
「拒否します。俺にはもう…軍籍は無い…」
 お互い元の位置から向かい合った儘一歩も動かない。
張り詰める沈黙。
ベットから扉迄の歩けば数歩の距離であるのに、二人の間を満たすのはコネクトする空気ではなく絶望的なまでの独立した、人と言う残酷なまでに交わりを知らない果てない宇宙。
交わる事の無い無限ループの平行線。
ああ目眩がする。
此れ程迄に自分は人で無力なのだ。
相手を抱き締めて遣る力すらこの断崖を前に膝を挫かれ自分を保つのに必至でいる愚かしさ。
ともすればその闇に溺れてしまいそうな危うい心でそれでも切なく藻掻いて、見つけだせたのはたった一つの惨めな言葉





「愛しているのだよ」





告げて泣きだしたのは私ではなく、彼の方だった。

、終わり